4年前のパラグアイの旅を振り返る
以前、第一病院で一緒に働いたM先生、奥様との再会と家族5人での最後の海外旅行として選んだものだった。ツアー旅行と異なり、航空機チケットとイグアスの滝観光のためのビザ入手を自分で行うという不安な準備から始まった。
2017年12月28日朝、秋田空港を出発し、羽田空港に向かう。晴天のもと羽田空港着陸前に左手に目にした美しい富士山を思い出す。17時30分、成田空港を出発し、12時間30分でアトランタ空港に着き、4時間待ちで、ブラジル、サンパウロのグアルーリョス空港に向かう。
12月29日、午前8時20分、9時間30でグアルーリョス空港に到着し、3時間30分待ちで、11時50分、パラグアイに向い、12時50分、パラグアイ、アスンシオン空港に到着、日本を出て約30時間の旅、M先生御夫婦の出迎えを受け、安堵な気持ちとなった。宿泊先のホテル、アスンシオンの新市街にある「ラミシオンホテルブティック」に向かった。眞子様が日系移民記念式典に訪問された際に利用されたホテルである。三井先生より治安について注意を受けた後、ホテル前のショッピングセンターでソフトクリームを食べながら、1年前に第一病院に交換留学で来られた消化器外科医A先生と再会した。ホテルで一休みし、アルメリー先生宅を訪問、耳鼻科医の奥様、息子さん 、娘さんに歓迎を受けた。リビングに「なまはげの面」が飾れていたのが印象的であった。夕食はステーキハウス「Acuarela」で、アサード(パラグアイやウルグアイやアルゼンチン、チリで食される、焼肉料理)がメインであるが、お寿司、パスタ等のブッフェスタイルのお店である。M先生ご夫婦と娘さん、A先生、昭和大学で消化器内視鏡を研修されたK先生(20年ぶりの再会)、秋田大学で腹部エコーを中心に研修されたMM先生との会食であった。南米スペイン語圏においてアサードは人々の交流を深めるための役割を果たしているとの記載があり、この意味もあっての設定であったかと思う。
12月30日、白いレストランでのゆっくりとした朝食後、9時にホテル出発。奥様の実家の農園に向かうが、年末の帰省のため、人がはみ出そうなバスなどで道路は渋滞である。ご夫婦で植えられた、あかしやの並木道を通り、広大な農園を見学、お二人のご苦労を想像し、勝手に、「M・Kストリート」と名付けた。ABRASE A CRISTO JESという偉大さを実感する教会。Marianela-Atyraは教会にコミュニテセンターの併設の施設で緑がまぶしい芝生が印象的であった。ニャンデュティ・レース(写真)の産地で有名なイタウグア。バカンスでにぎわうイパカライ湖。保健省の直轄と思われる、真新しい、大きな老人ホームは、M先生の電話での交渉で特別に見学を許されたが、銃を持った警備員の同行であった。陶器の町として有名なアレグアでは、クリスマスを終えたばかりで、様々な馬小屋が並ぶ店。その近くにあるM先生院長のパラグアイがんセンター院内見学では、建物は古いものの、スッタフの懸命な姿勢を見せてもらった。夕食は「WookAsia」(中国料理)であった。
12月31日:旧市街の観光。鉄道歴史博物館は、現在は廃止された旧鉄道駅を利用されたもので、初代大統領によって敷設されたパラグアイ最古の蒸気機関車の展示されている。鉄道好きの私は、建物外観が知りたくて歩き回るが、治安から、家族ははらはらだったようだ。切符をいただいた(写真)。独立の家博物館。カテドラル、近くにはスラム街。国会議事堂。ルーブル美術館を模して建てたと言われる大統領官邸。名門ホテル「グアラニーアスンシオン」。ランバレ丘には平和の勝利記念塔があり、暑さが厳しかったのを思い出す。夜はM家の年越しパーティーに招待された。お二人のお母さまから、移民時の厳しさを生の声で聴け、感動した。御馳走とワインで年を越した。(WIKIPEDIAからの移民の記載:現在、日系パラグアイ人は約1万人が住んでいる。1953年に日芭拓殖組合は日本人がパラグアイ南部のフェデリコチャベス、ラパス、フジに移住するのを援助した]。また日本海外移住振興会社は1959年からイタプア市に農業移住地を開拓した。これらの移住地は地元の農業発展に大きな成功を収めたことから、1959年にパラグアイ政府と日本政府は移民協定を結び、1959年から1989年までの間に85,000人の農夫を日本からパラグアイに移民することで合意したが、日本経済が1960年代に回復したため、その30年間にパラグアイに移民したのは7000人にすぎなかった).
1月1日12時、イグアスの滝(アルゼンチン、ブラジル、パラグアイに渡って流れるイグアス川の下流にある)に向かう。国道2号線を走り、カピアタ、チペリア、MariaAna(チーパー)、サン・ホセ、コネル・オピエド、コアグアス。国道7線に移り、エスティ・ガリビア、パラグアイの第二都市エスティ市、21時フォス・ド・イグアスとブラジル入国、宿泊の「:Hotel Rafain Centro」に到着した。
1月2日、ホテルを出発。アルゼンチン入国、プエルト・イグアスからバスに乗り、国立公園内のビジターセンターへ。滝つぼに飛び込むボートツアーは迫力ものであった。その後、緑の電車に乗り換えて、滝の上を回る遊歩道を歩き、「悪魔の喉笛」という滝を望む(アルゼンチンからの眺望)。世界三大瀑布(ナイアガラ、ヴィクトリア、イグアス)と言われているが、他の滝を見たことがない私にはすごさが分からなかったが、ガイドブックでは、滝幅4㎞、275が滝連なることから、他の滝とスケールが違うとのことである。滝を出て、再び、Hotel Rafainに帰着。
1月3日9時30分,ホテル出発。フォス・ド・イグアス着、「悪魔の喉笛」のブラジルからの眺望。その後パラグアイに入国。イグアス移住地:1936年、日本人の最初の入植地。2016年、パラグアイ日本人移住80周年記念式典に眞子様が訪問された。ヤクルト岡林投手出身でもある。サトウキビ生産のトレッチェは南由利原に似ている。ドイツ人入植地、インディペンシア。広大な土地の北海道に似ているビリアリカ。サトウキビ工場のテビカル。最初の日本人の入植者はウブツミ駅(駅舎現存)に鉄道で下車、歩いて、ラ・コルメナに入った。外に錆ついた機関車、鉄道博物館のあるサプカイ。アスシオン市内に戻り、ショッピングモール内の「広島」でパラグアイでの最後の夕食は、うどん、ラーメンであった。
1月4日:ホテルで贅沢な朝食をゆっくりとり、13時30分:アスシオン空港を発ち、逆のコースで30時間をかけて、1月6日15時44分、日本帰還した。
2年前の記憶をメモを見ながら辿りました。不正確で事実に異なることもあり、お詫びします。移民にかけた先人の日本人同胞の壮烈な戦いを垣間見ることができました。M先生は、現在、パラグアイ国立がん研究所理事長として、パラグアイの医療に精力的に働いておられます。日本との交流を大切にされ、「パラグアイ・日本の医学交流会」も設立されています。この素晴らしい旅を支えて下さったM先生、奥様をはじめ、多くの方々に感謝いたします。パラグアイにまた行ってみたいものですが、いつのことやら。
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